
ドーモ、僕(@zomubbit)です。ぞむぅ。
前回の記事はここからどうぞ☆
突然ですが『Wikipedia三大文学』をご存じですか?
その記事の内容があまりに秀逸なことからついた名で、一般的に「三毛別羆事件」、「八甲田山雪中行軍遭難事件」、「地方病」の3記事のことを指します。
今回はそのうちの一つ、『三毛別羆事件』についてご紹介していきたいと思います。
事件の概要


三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)は、1915年(大正4年)12月9日から12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢で発生した、クマの獣害としては日本史上最悪の被害を出した事件のことです。
場所は旭川の北西に位置していますね。
エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負いました。事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事態は終息。


最初三毛別が読めなくて「みけべつ」って読んでたのは内緒。
事件の詳細
11月初旬 序章
池田家
ある夜明け前、六線沢の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。飼い馬が驚いて暴れたため、そのときの被害は保存食のとうもろこしに留まった。主人である池田富蔵(いけだ とみぞう)はぬかるみに残った足跡の大きさ(約30cm)に懸念を持った。
その後11月20日、30日と三度現れたヒグマに猟銃を撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。
その夜、長男・富吉 (とみきち)や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(かめじろう・当時18歳)とマタギ2人の4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。
マタギたちは、「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。
12月9日
太田家
太田三郎 | 太田家主人 |
阿部マユ | 三郎の内縁の妻 |
蓮見幹雄 | 太田家養子。6歳 |
長松要吉 | 太田家寄宿人 |
12月9日の朝から太田三郎と長松要吉は仕事に出かけ、阿部マユと蓮見幹雄は家で小豆の選別作業をしていた。
同日の昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。ふざけてたぬき寝入りをしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手をかけてのぞき込んだ。
ヒグマに襲われた幹雄はすでに息絶えていた。要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、下流の仕事現場へ走った。
要吉に呼ばれ駆けつけた村の男たちが居間を調べると、マユの抵抗した痕跡があったがそこに彼女はいなかった。
騒動
明景安太郎 | 明景家主人 |
斉藤石五郎 | 伝達役 |
斉藤タケ | 石五郎の妻 |
斉藤巌 | 斉藤家三男 |
斉藤春義 | 斉藤家四男 |
事件の一報に村は大騒動となった。男達は太田家から500m程下流の明景安太郎(みようけ やすたろう、当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。取り急ぎ「役場」「駐在所」「蓮見幹雄の実家」へ事件を伝達する必要があり、その伝達役を斉藤石五郎が引き受けた。
石五郎は安太郎が留守にしている明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(いわお、当時6歳)、四男・春義(はるよし、当時3歳)の家族3人を避難させ、長松要吉も男手として同泊する手はずが取られた。
12月10日
捜索
早朝、斉藤石五郎は村を後にした。残る男たちは、ヒグマを討伐してマユの遺体を収容すべく、約30人の捜索隊を結成した。
森に入り150mほど進んだあたりでヒグマと遭遇した彼らは猟銃を向けたが、整備不良のため発砲できたのは5丁中たった1丁だけだった。怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなったが、あっけなくヒグマが逃走に転じたため、彼らに被害はなかった。
改めて周囲を捜索した彼らは、太田家から150m離れた場所にあるトドマツの根元にマユを見つけた。
太田家への再襲
夜になり、太田家では幹雄とマユの通夜が行われた。
午後8時半ごろ、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマがマユの遺体を取り返すために室内に乱入してきた。
近隣の50人ほどの男たちが物音や叫び声を聞いて駆けつけたが、そのころにはヒグマはすでに姿を消していた。犠牲者が出なかったことに安堵した一同は、いったん明景家に退避しようと下流へ向かった。
明景家
明景ヤヨ | 安太郎の妻 |
明景力蔵 | 明景家長男。10歳 |
明景勇次郎 | 明景家次男。8歳 |
明景ヒサノ | 明景家長女。6歳 |
明景金蔵 | 明景家三男。3歳 |
明景梅吉 | 明景家四男。1歳 |
斉藤タケ | 石五郎の妻 |
斉藤巌 | 斉藤家三男 |
斉藤春義 | 斉藤家四男 |
長松要吉 | 太田家寄宿人 |
そのころ、明景家には10人(タケの胎児を含めると11人)が避難していた。太田家へのヒグマ再出没の報を受けて護衛が出動していたため、男手として残っていたのは要吉だけだった。
太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。
太田家からヒグマが消えてから20分と経たない午後8時50分ごろ、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。
ヒグマに襲われたヤヨはなんとか隙をつき勇次郎と梅吉を連れて家から脱出した。
屋外へ逃げ出し追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。ヒグマは金蔵と春義を一撃で倒し、さらに巌に噛みついた。このとき、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気づいたヒグマは彼女にも襲いかかった。
騒ぎを聞きつけた男たちは明景家を取り囲んだが、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破り表で待つ男たちの前に現れた。先頭の男が撃とうとしたがまたも不発に終わり、他の者も撃ちかねている隙にヒグマは姿を消した
松明を手に明景家に入ると力蔵とヒサノの2名のみが難を逃れ生存していた。
六線沢の全15戸の住民は、三毛別にある三毛別分教場へ避難することにした。この2日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。
12月11日
決議
すべての住民が三毛別分教場に避難した六線沢に人影はなく、ヒグマ避けに焚く炎が、昨夜から不気味に寒村を照らしていた。小村の住民だけではもはやなす術はなく、三毛別地区区長の大川与三吉(おおかわ よさきち,当時47歳)ら村の有力者で話し合いをし、ヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決議した。
その一方、家族に降りかかった悲劇を知らず雪道を往く斉藤石五郎は、11日昼近くに帰路について下流の三毛別にたどり着き、妻子の受難を知らされ、呆然と雪上に倒れ伏しただ慟哭をあげるしかなかった。
12月12日
討伐隊の組織
六線沢ヒグマ襲撃の連絡は北海道庁にもたらされ、討伐隊の組織が指示された。羽幌分署長の菅貢警部は近隣の青年会や消防団、志願の若者やアイヌたちにも協力を仰ぎ、村田銃60丁や刃物類、日本刀を携えた者を含め、270人以上が三毛別に集まった。
隊長の菅警部は防衛線である射止橋を封鎖する一方、討伐隊を差し向けた。しかし、林野に上手く紛れるヒグマの姿を捕らえることはできなかった。
待ち伏せ
夕暮れが迫り、手応えを得られない討伐隊本部は検討を重ねた。ヒグマの獲物を取り戻そうとする習性を利用しヒグマをおびき寄せる策が提案された。菅隊長は罵声さえ覚悟して遺族と村人の前に立った。しかし、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れた。だがヒグマは現れず作戦は失敗に終わった。
12月13日
手ごたえ
この日、旭川の陸軍第7師団から歩兵第28連隊が事態収拾のために投入される運びとなり、将兵30名が出動した。一方、ヒグマは村人不在の家々を荒らし回っていた。行動域がだんだんと下流まで伸び、発見される危険性の高まりを認識できていないなどヒグマの行動は慎重さを欠き始めていた。菅隊長は氷橋を防衛線とし、ここに撃ち手を配置し警戒に当てた。
午後8時ごろ、橋に現れたヒグマを仕留めそこない悔やむ声も上がったが、隊長は手応えを感じ取っていた。
12月14日
最期
10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った山本兵吉(やまもと へいきち、当時57歳。)という熊撃ちがいた。鬼鹿村温根(現在の留萌郡小平町鬼鹿田代)に住む兵吉は、若いころに鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、軍帽と日露戦争の戦利品であるロシア製ライフルを手に数多くの獲物を仕留めた、天塩国でも評判が高いマタギだった。
彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、誰もが悔しがった。
兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。ヒグマは頂上付近でミズナラの木につかまり体を休めていた。その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在にはまったく気づいていない。音を立てぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。
銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの死骸だった。
熊風
ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2.7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えた大物であった。
隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者などさまざまだった。やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。終わってみると12日からの3日間で投入された討伐隊員はのべ600人、アイヌ犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇であった。
ヒグマの死骸を大人数でそりに乗せ引き始めるとにわかに空が曇り雪が降り始めた。事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わりそりを引く一行を激しく打った。言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるという。この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ
終章
事態は解決しても村人は気力を取り戻せず、六線沢はひとりまたひとりと村を去り、下流の辻家を除いて最終的に集落は無人の地に帰した。
ヒグマを仕留めた山本兵吉はその後もマタギとして山野を駆け回り、1950年に92歳で亡くなった。彼の孫によると、生涯で倒したヒグマは300頭を超えるという。
事件の分析
原因
事件は、冬眠に失敗したいわゆる「穴持たず」が、空腹に凶暴性を増し引き起こした例と思われていたが、明治以降の内陸部開拓が相まって、野生動物と人間の活動範囲が重なった結果が引き起こした事件とも言及されている。
感想
いや、怖すぎんだろ!!!
初めて読んだときトラウマになったよ!!!
何が怖いかって実話なんですよね、コレ。
前日譚で巨大ヒグマの存在をチラつかせてからのマタギの「非常に凶暴なクマ」発言。1回目の襲撃とさらにそれを超える被害の2回目の襲撃。村⇒警察⇒軍と徐々に拡大する討伐隊の規模。軍の介入があるにも関わらず討伐できない中、たった一人のマタギにより仕留められたヒグマ。しかもこのマタギ「サバサキの兄」との異名持ち。そして最後の「熊風」。それまで晴天だったのに急に吹雪くって。。。
こんなの映画じゃん!!フィクションじゃん!!実話って嘘じゃん!!!
でも実話なんですよね。まさに事実は小説より奇なり。
実際に被害に遭われた方は本当に恐ろしかったと思います。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
三毛別羆事件復元地


このクマ実物大らしい。。。お前が私の死か。。。
まち活性化の一助にと平成2年夏、同集落の住民が総出で現場を再現した広場。「山奥の森林に囲まれた薄暗い場所で、今にもヒグマが出現しそうな雰囲気があり、訪れる人々にとってスリルを感じる隠れた人気の観光スポットとなっています。」とのこと。


ここ、近くに民家はないし、携帯電話も圏外だし、普通にヒグマが出る地域だし、とかなりデンジャーな観光スポットです。よく開設にGoサイン出たな。
行ってみたい方はぜひ!私は絶対行かない!!



フィクション「羆嵐」


三毛別羆事件を語るにあたって絶対外せない小説がこちら。
三毛別羆事件を小説化したもので、主人公はヒグマをたった一人で仕留めた山本兵吉をモデルにした、凄腕の猟師「山岡銀四郎」です。
後にテレビドラマ化やラジオドラマ化もされた作品とのこと。
今は苫前町郷土資料館で50分の短縮版(テレビドラマ)を観ることができるそうです。
ノンフィクション「慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件」


こちらは「羆嵐」とは違い、「三毛別事件」の全貌を生存者たちへの貴重な証言をもとに描き出した戦慄のノンフィクション。
Wikipediaの記事より更に生々しい表現が多いそうです。
三毛別事件により興味を持たれた方は一読されてみてはいかがでしょうか。
まとめ
はい!フィクションのようなノンフィクション、戦慄の獣害「三毛別羆事件」についてを紹介しました。
『Wikipedia三大文学』と呼ばれるほど秀逸な記事はこちらです。
あまりに凄惨な内容なので本記事では直接的な描写はほとんどカットしました。
この記事を読んで興味を持たれたら是非本家のWikipedia記事の方も読んでみてください。
犬神家の一族や初期の名探偵コナンが平気なら大丈夫かもしれません。。。
筆者は正直怖いからもうあんまり読みたくないです。


クマのプーさんのモデルは「アメリカグマ」。
それでは今回はこの辺で。次もぜってぇ見てくれよな☆
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