ドーモ、僕(@zomubbit)です。ぞむぅ。
前回の記事はここからどうぞ☆
夏なので怪談を多めに紹介していきたいな、と思います。
今回のお話は【耳なし芳一】。
怖いの苦手な人にも怖くないように紹介していきますね。それではどうぞ。
耳なし芳一のお話
盲目の天才琵琶ニスト HO-1
昔々阿弥陀寺に芳一という盲目の琵琶法師が住んでいました。芳一は平家物語の弾き語りが得意で、特に壇ノ浦の段は「鬼神も涙を流す」と言われるほどの名手でした。
やんごとなき演奏依頼
和尚さんが留守のある夜、芳一の琵琶の評判を聞きつけどこからともなく一人の武士が現れました。「君琵琶上手いらすぃ~ね~。ちょっと一緒に来て聴かせてよ。」
芳一がついていった先は大勢の貴族が集まっていたようです。貴族たちは芳一に「壇ノ浦の戦い」のくだりを所望しました。芳一が演奏を始めるとあちらこちらですすり泣く声が聞こえました。「HO-1の壇ノ浦やっぱ名曲だわ。これしか勝たん。」「われらと平家とのEternalなり。」
「いや~HO-1くん、すごく良かったよ。僕も感動しちゃった。ハハッ。それでさ悪いんだけどこれから7日くらいちょっと頼まれてくれないかな?あぁ、ギャラはちゃんと出すから安心して。あとそうだ。ウチちょっと世間にバレるとやばめの人とかいてさ、このことは内密でお願いしてもいいかな?」
雨粒とのセッション
和尚さんは、目の見えない芳一が無断で毎夜一人で出かけ、明け方に帰ってくる事を不審に思い、寺男たちに後を着けさせました。すると大雨の中、芳一は一人、誰もいない平家一門の墓地の中におり、平家が推戴していた安徳天皇の墓前で、恐ろしいほど無数の鬼火に囲まれて琵琶を弾き語っていました。
「o yeo so noe toe noka me nori two nay noe yah sucky knee maw haru moe noe coe so knucker lee kera.」
芳一が貴族だと思っていたのは平家一門の邪悪な怨霊で、和尚さんは怨霊たちが邪魔をされたことで今や芳一の琵琶を聞くことだけでは満足せず、このままでは芳一が平家の怨霊に殺されてしまうと心配しました。
今夜は法事で芳一のそばについていてやることが出来ない。寺男や小僧では怨霊に太刀打ちできないし、芳一を法事の席に連れいてけば、怨霊をもその席に連れて行ってしまうかもしれず、檀家に迷惑をかけかねない。そこで和尚さんは怨霊が芳一を認識できないように、法事寺の小僧と共に芳一の全身に般若心経を写しました。
HO-1、鮮烈のタトゥーデビュー
その夜、芳一が一人で座っていると、いつものように武士が芳一を迎えに来ました。
「HO-1く~ん。いないの~?おかCな。。琵琶はあるのになぁ。。」
怨霊は芳一を探し回ったのち、写経し忘れたため暗闇の中にポツンと浮かぶ耳を見つけました。
「あーマジかー。耳見つけたけどHO-1くんいないや~。いなかった証拠持ってかないと社長に怒られるから、とりまコレ持って帰ろっと。」
芳一の脳内では痛みと恐怖がワルツを踊っていましたが、彼は一言も声を出さずにひたすら堪えていました。
その後、平家の怨霊は二度と現れることはありませんでした。
レジェンド「耳なしHO-1」爆誕
明け方になり帰って来た和尚さんは、両耳をブチンされて意識のない芳一の様子に驚き、昨夜の一部始終を聞いた後、初めて、芳一の身体に般若心経を写経した際に、小僧が経文を耳にだけ書き漏らしてしまったことに気付き、芳一に、そのことを見落としてしまった自らの非を詫びました。
その後、耳の傷も無事に癒え、この不思議な出来事が世間に広まり、彼は「耳なし芳一」と呼ばれるようになりました。やがて琵琶の腕前も評判になり、その後は何不自由なく暮らしましたとさ。
あれ?ギャラ貰って無くない?
参考「耳なし芳一」
耳なし芳一の背景
耳なし芳一のお話を紹介しました。この怪談自体は有名なので話の内容を知っている方も多くいるかと思います。
ところで話の中にちょいちょい日本史で習ったワードが出てきましたが、覚えていましたか?
私は全然覚えていなかったので、この機会に軽く復習してみようと思います。
平家物語
『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したとされる軍記物語で、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などを描いた。
①保元の乱および平治の乱に勝利した平家と敗れた源家の対照的な姿、②その後の源平の戦いから平家の滅亡、③そして没落しはじめた平安貴族と新たに台頭した武士たちの人間模様などを描いた。「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しでも広く知られている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』平家物語
そもそも平家ってなんだっけ?
平家物語の平家は平維衡よりはじまる平氏一族の一つ伊勢平氏のことです。平清盛が有名。
平氏っていう大きなコミュニティの中の一つが平家だね。
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させたのはあのタッキーだったのですね!でもこの戦いの件で義経も追われることに。。熱くVenus 燃えてVenus。
最期は海上戦だったのですが、当初は平家が優勢だったみたいです。潮の流れで源氏が勝利したのね。平家の亡霊たちはなんで自分たちが滅ぼされた戦の噺を聞きたがったのか?
二位尼(安徳天皇の母方祖母)が安徳天皇とともに海に身を投じた際に言った「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございますよ。」は有名なセリフですね。(これだけ覚えてた。)
安徳天皇
安徳天皇(あんとくてんのう)は、第81代天皇(在位: 1180年3月18日 – 1185年4月25日)。諱は言仁(ときひと)。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』安徳天皇
安徳天皇は享年6歳です。在位期間が5年だから1歳の時から天皇やってたんですね。赤ちゃんの頃は平清盛が代わりに政治をしていました。
最期はおばあちゃんの二位尼に抱えられて3種の神器の勾玉、宝剣と共に入水しました。勾玉は源氏に回収されましたが、宝剣はこの時に無くなってしまった説が有力です。
生まれた時代や立場のために6歳という若さで人生を終えてしまいました。とても悲しいです。
まとめ
有名な怪談を掘り下げたら日本史の勉強になりましたね。中学生の時に理解したかったことがたくさんあります。平氏と平家の違い今分かった笑
それにしても平家の幽霊が「邪悪な怨霊」と酷い言われ方をしているのがなんとも。。
負けると酷い言われようで伝わるのは仕方ないとはいえ悲しいですね。
およそ能登守教経の矢先にまはる者こそなかりけれ。
それでは今回はこの辺で。次もぜってぇ見てくれよな☆
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